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国指定史跡島原藩主深溝松平家墓所

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記事ID:0000825 更新日:2020年4月1日更新

島原藩主深溝松平家墓所が国史跡指定になりました!

 国の文化審議会は、11月15日(金曜日)に開催された同審議会文化財分科会の審議・議決を経て、島原藩主深溝松平家墓所を国史跡として指定することについて文部科学大臣に答申されていましたが、平成26年3月18日(火曜日)付けで、下村博文文部科学大臣より告示が出され、国史跡に指定されました。

東廟所の画像
東廟所

西廟所の画像
西廟所

指定対象の名称

 島原藩主深溝松平家墓所(しまばらはんしゅふこうずまつだいらけぼしょ)

指定対象の所在

 額田郡幸田町大字深溝字内山3番ほか20筆等

指定対象の面積

 50,136.53平方メートル

島原藩主深溝松平家墓所の概要

 島原藩主深溝松平家墓所は幸田町南部の深溝地域、その東側に広がる山間部に位置する瑞雲山本光寺(ずいうんざんほんこうじ)に所在する。瑞雲山本光寺は15世紀初頭に深溝の地に深溝松平家の菩提寺として創建された寺院である。
 深溝松平家は、江戸時代に十八松平家と称された戦国時代の松平氏の一家で、深溝を領地としたことからこのように称された。四代家忠(いえただ)まで深溝を領地とするが、家康に従って関東に移封する。その後、五代忠利(ただとし)が深溝西郡藩主として深溝を領地とするが、後に三河吉田藩主として移封され、六代忠房(ただふさ)の時代に三河刈谷藩主・丹後福知山藩主を歴任した後、肥前島原藩主(長崎県島原市)となり幕末を迎える。
 江戸時代の大名は、死後墓所を江戸及び領地に造ることが一般的であるが、深溝松平家は、幸田町深溝に所在する瑞雲山本光寺を歴代当主の遺体を納める菩提寺とし、五代忠利から十九代忠諒(ただあき)までの当主を、死没地に関わりなく、深溝の地まで運び埋葬するという特殊な方法を継承している。境内地に造られた墓所は西廟所(にしびょうしょ)と東廟所(ひがしびょうしょ)の2カ所に分かれ、西廟所には初代忠定(たださだ)から四代家忠までと、五代忠利・十一代忠恕(ただひろ)が葬られており、東廟所には島原藩主となって以降の六代から十九代までの当主と六代忠房正室が葬られている。このうち、初代から五代を除くすべての墓標が、同じ神殿型墓石となっている。これは六代忠房の神道への傾倒の影響によると考えられ、以後神道の思考に基づく墓所形態や埋葬方法が受け継がれており、江戸時代の大名の葬送儀礼を考えていく上で重要な資料である。

島原藩主深溝松平家墓所保存整備委員会

幸田町教育委員会では、国史跡島原藩主深溝松平家墓所の整備、保存等に関する協議及び検討を行うために島原藩主深溝松平家墓所保存整備委員会を設置し、文化財の専門家等による会議を開催しています。平成26年度は「保存管理計画」とよばれる史跡保護の基本方針の策定について協議・検討が行われました。

問い合わせ先

 生涯学習課生涯学習グループ(内線195)

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