ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ
現在地 ホーム > 組織でさがす > 企画部 > 企画政策課 > 幸田町東京2020オリンピックホストタウン事業 第11回 ハイチ英雄列伝4 国際社会仲間入りへの涙ぐましい努力 - アレクサンドル・ペチョン

本文

幸田町東京2020オリンピックホストタウン事業 第11回 ハイチ英雄列伝4 国際社会仲間入りへの涙ぐましい努力 - アレクサンドル・ペチョン

<外部リンク>
記事ID:0009968 更新日:2021年6月18日更新

第11回 ハイチ英雄列伝4 国際社会仲間入りへの涙ぐましい努力 - アレクサンドル・ペチョン

アンリ王がイギリスとロシアとの接触を試みたのに対して、ペチョンは南米諸国からの独立承認を模索しました。ペチョンは、1815-16年頃、ハイチに支援を求めて亡命してきたラテンアメリカ諸国の独立運動家に寛大な支援を行いました。

 
11-1
ペチョンの肖像。作者不詳

皆さんはコロンビア、ベネズエラ、エクアドルをスペイン支配から独立に導いた革命家のシモン・ボリバルをご存じでしょうか。彼も、ペチョンから独立戦争のための軍事支援を1816年に二度にわたって受けました。ペチョンからの支援を得たボリバルは、3月27日、「明後日14隻の戦艦と2000人の兵士と、10年間戦争するのに十分な武器を積んでベネズエラに戻る」という手紙をハイチから戦友に送っています。ボリバルは、スペインに敗れて7月にペチョンの元に逃げ帰り、再び支援を懇願したのに対して、ペチョンは快く応じます。この時、「見返りに自分は何をしたらよいか」とのボリバルの問いに、ペチョンは「あなたが解放する地域で黒人奴隷制度を廃止してくれれば見返りはいらない」と応じます。こうして、12月18日、ボリバルはスペインに勝利を収めることになる二度目のハイチからの遠征に出発するのです。

しかし、ボリバルは、スペインから大コロンビア独立を成し遂げた後、ペチョンとの約束を反故にします。1824年、大コロンビア大統領だったボリバルは、ハイチからの二国間軍事友好通商同盟の提案も拒否します。彼は、ラテンアメリカ地域の独立国間の協力強化のために1826年にパナマ会議を招集しますが、黒人独立国家のハイチに声をかけることはありませんでした。

 

 11-2

ボリバルの肖像。アルツロ・ミケレナ作

ボリバルほどの革命の英雄がなぜペチョンとの約束を反故にしたのでしょうか。

当時の南米の新生諸国は、国際社会における自らの居場所を見つけるのに必死で、わざわざ大国フランスの不興を買うようなことはできませんでした。フランスは、反逆した植民地(ハイチ)の独立を承認する国はフランスの敵国と見なすと宣言していたのです。

また、スペイン支配からの独立といっても、スペインから移住した白人が統治する政府であって、大コロンビアでの黒人の地位は相変わらず低いままでした。黒人が統治するハイチと外交関係を持つことは自らの白人政府の存立を危機にさらす恐れがありました。事実、ボリバルは彼の右腕であるサンタンデル宛ての1822年12月23日付書簡で、「コロンビアの海岸を、原始の炎よりも強大な力を持つハイチのアフリカ人から守る必要性」を説き、ハイチのことを「状況は非常に複雑で恐ろしく、恐怖と不幸と絶望しかもたらさない」としています。この恐怖感の背景に、デサリーヌによるフランス人虐殺の記憶があったのは間違いありません。

時は流れて2006年、チャベス前ベネズエラ大統領がベネズエラ産石油をハイチに好条件で貸与するペトロカリベ協定をオファーしました。反米だったチャベス大統領には、米国からの石油依存体質からハイチを脱却させようとする政治的意図があったとされますが、祖国独立の英雄ボリバルがハイチから受けたかつての国家の恩を、200年越しで自分がお返しするのだという強い思いがあったようです。

 

(本稿は執筆者個人の見方であり、外務省の見解を述べたものではありません。)

 

(参考文献) Les grandes dates de l’histoire diplomatique d’Haïti, Wien Weibert ARTHUS

ペチョンの肖像の出典は、フリー百科事典「ウィキベディア」から

https://en.wikipedia.org/wiki/Alexandre_Pétion<外部リンク>

ボリバルの肖像の出典は、フリー百科事典「ウィキベディア」から

https://ja.wikipedia.org/wiki/シモン・ボリバル<外部リンク>

 

追記5 ジュトゥ元首相からの贈り物:4人の英雄の壁掛け

2021年5月12日、私は、前月に辞任したばかりのジョゼフ・ジュトゥ首相を表敬しました。ジュトゥ首相とは、環境大臣時代から数えると2年間のお付き合いで、彼が自ら辞意を表明した時は驚き、残念な思いをしました。私は、ジュトゥ元首相にこれまでの協力と支援に対する謝意を伝えるとともに、故郷の幸田町のホームページに日本語でハイチを紹介するコラムを執筆していることを説明し、ちょうど独立の英雄4人についての掲載が始まるところであると伝えました。

すると、翌週の5月17日、思いがけず、ジュトゥ元首相から私に、誕生日プレゼントとして写真のような4人の英雄の壁掛けをいただきました。このコラム連載の記念品として大切にしたいと思います。

 
11-b
ジュトゥ元首相から頂いた4人の英雄の壁掛け:撮影筆者

 

水野光明在ハイチ日本大使の紹介
幸田小学校、幸田中学校卒。創価大学大学院経済学研究科中退。1991年外務省入省。外務省では、主に貿易、国際協力、条約、国連関係の仕事に携わり、海外は、ガボン共和国、フランス、コンゴ民主共和国、スイス(ジュネーヴ)、国連開発計画(ニューヨーク本部)で勤務。2018年12月から現職。


検索対象
注目ワード

コロナウイルス ふるさと納税 採用 広報こうた