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幸田町東京2020オリンピックホストタウン事業 第10回 ハイチ英雄列伝3 世界遺産シタデル(城砦)の建設者 - アンリ・クリストフ
第10回 ハイチ英雄列伝3 世界遺産シタデル(城砦)の建設者 - アンリ・クリストフ
建国の父デサリーヌの死後、黒人のアンリ・クリストフとムラートのアレクサンドル・ペチョンの間で後継争いが始まりました。クリストフは、1806年12月に北部で大統領に就任し、その後王国を建設します(1811年3月)。これに対して、ペチョンは、1807年3月に南部で大統領に就任し、ハイチは独立から3年後に南北の2つの国に分裂してしまいます。そして、12年間内戦状態が続いたことで、かつてサトウキビやコーヒー作りで栄えた農地は荒らされ、農業生産は急激に落ち込んでしまいます。
アンリ・クリストフの肖像 リチャード・エヴァンス作 |
アンリ王は、ハイチを引き続き旧植民地として扱おうとするフランスとはいかなる関係も構築しないとの断固たる立場を貫き、ハイチとの関係を再構築しようと派遣されたフランスの使者を容赦なく処刑しました。アンリ王は、むしろ英国との関係を構築しようと試みます。彼は、元々英語圏出身(グレナダ出身と言われています。)で、心情的に英国に近かったようです。アンリ王は、奴隷廃止主義者の英国人の助力を得て、ロシアとの外交関係樹立を模索して、ツァーであるアレクサンドル1世との接触を試みました。アンリ王は、ロシアから国家として承認してもらうことで、フランス政府から独立承認を勝ち取ろうとしたのです。実際に、アレクサンドル1世はフランスに対してハイチ問題を清算するように求めています。しかし、残念ながら、1820年のアンリ王の死によってイギリス人とロシアへの働きかけの道は閉ざされてしまいます。彼は、同年8月に脳卒中で倒れて半身不随となり、暗殺の辱めを受けまいとサン・スーシ宮殿の中で自ら命を絶ったのです。
この自殺によって生じた権力の空白をペチョン(1818年没)の後継者ジャンピエール・ボワイエが埋める形で国の再統一が実現します。
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ユネスコ世界遺産のシタデル。筆者撮影 |
アンリ王は、フランスやスペインが再び攻めてくることを警戒して、キャップの街の南の山中にシタデル・ラフェリエール城砦を建設しました。これは、その麓にある彼の宮殿サン・スーシ宮殿とともにハイチで唯一のユネスコ世界遺産に認定されています。アンリ王は、シタデルの完成を待たずに自らの命を絶ちましたが、この城跡からカパイシアン(かつてのキャップ・フランセ)の街を見下ろす時、外国の侵略から国を守ろうとするアンリ王の断固たる決意を感じずにはいられません。
サン・スーシ宮殿。撮影筆者配偶者 |
(本稿は執筆者個人の見方であり、外務省の見解を述べたものではありません。)
(参考文献) Histoire d’Haïti Tome 1 1492-1915, Dr. Jean-Chrysostome Dorsainvil
Les grandes dates de l’histoire diplomatique d’Haïti, Wien Weibert ARTHUS
クリストフの肖像画は、イギリス人画家Richard Evansがハイチのサン・スーシ宮殿に出向いて描いたものです。
追記4: シタデル・ラファイエール城砦に残るルイ14世時代のフランス製大砲
ユネスコ世界遺産シタデル・ラファイエール城砦内には、独立戦争でフランス遠征軍から没収した大砲が展示されています。これらの大砲は、フランス太陽王ルイ14世の治世に鋳造された特徴として、ブルボン王朝のユリの紋章の他に、ラテン語で”Nec pluribus impar”(他に比肩する者なし)や”Ultima ratio regum”(平和的、外交的な手段が尽きた時には、最後は王が意思を通すため武力を行使する。)が刻まれていました。ナポレオンの遠征軍でルイ14世時代の大砲が使用されていたのも興味深いのですが、さらに、シタデルにある大砲からは、王を意味するregumの文字や、ユリの紋章や王冠がハイチ兵士によって削り取られていました。これも、ハイチとフランスとの歴史の証として、興味深いエピソードと言えるかもしれません。
シタデル内の大砲。撮影筆者 |
王regumの文字が削り取られた大砲。撮影筆者 |
王冠とユリの紋章が削り取られた大砲。撮影筆者 |