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幸田町東京2020オリンピックホストタウン事業 第9回 ハイチ英雄列伝2 独立に導いた祖国の父 - ジャンジャック・デサリーヌ
第9回 ハイチ英雄列伝2 独立に導いた祖国の父 - ジャンジャック・デサリーヌ
トゥサンが降伏した時点で、黒人軍には2万人の兵士が残っていました。フランス遠征軍のルクレール将軍によって、密告に基づく黒人兵士の処刑が始まると、1802年10月、黒人兵士達はフランスに反旗を翻しました。これが独立戦争の始まりです。
元奴隷のゲリラ部隊長のデサリーヌは、戦闘ならトゥサンより優れていました。デサリーヌは、1802年11月以来、疲れ知らずに馬を駆り、最も厳しい闘いの先頭に立ち、戦果を立てました。また、フランスの圧政を倒すために各地に赴いて彼の熱情を伝えて軍の志気を高めました。仏軍は黄熱病の蔓延と戦闘の長期化によって次第に数を減らし、士気も低下して劣勢になり、1803年10月には、仏軍が支配するのは、北部のキャップ・フランセ(現在のカパイシアン)とモール・サン・ニコラを残すのみになります。
1803年11月18日、解放軍は、キャップ・フランセの南ヴェルティエールにおいてフランス軍との最後の戦闘に勝利し、12月4日、生き残った仏軍約7000人は島から撤退し、独立戦争は終了しました。
1804年1月1日、ゴナイブの地で、「自由を、さもなくば死を」という言葉で始まる独立宣言が行われます。
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デサリーヌの肖像。作者未詳 首都ポルトープランスにある壁画といわれる |
独立後、デサリーヌは、国内にフランス人への復讐の欲求が充満しているのを感じ取り、赴く先々で島に残っていたフランス人の虐殺を命じます。国の将来に必要とされた神父や医者は難を逃れることができましたが、復讐の標的は女性や子供にまで及びました。この黒人独立国家によるフランス人虐殺のニュースは世界を震撼させます。
身の危険を感じて既に島を去っていたフランス人達は、いつか戻ってくる希望を捨てず、島に残る人との間で財産の売買、貸借契約を交わしましたが、デサリーヌはこれら契約をすべて無効にし、フランス人から財産を没収しました。このフランス人の財産没収は、後にフランス政府による賠償金強要の形でハイチに重くのしかかることになります。
所有者の去った広大な農園や空き物件は、ムラート(白人と黒人の混血の人々)達が自分の親戚のものだったと主張してその相続権を得ようとしました。デサリーヌは、不正を正すためにこれらの疑わしい申立ての検証を始めたことで、ムラートの反感を買う結果を招きます。1806年10月17日、デサリーヌは、首都ポルトープランスのポン・ルージュで待ち伏せされ、銃で撃たれて死亡します。この暗殺に関わったのは、デサリーヌと一緒に独立宣言に署名したかつての戦友のムラート達でした。
ハイチの独立は、黒人とムラートの「団結」によって成し遂げられましたが、わずか3年足らずで建国の父デサリーヌがかつて戦友だったムラート達の裏切りによって暗殺されたのは何とも皮肉です。
(本稿は執筆者個人の見方であり、外務省の見解を述べたものではありません。)
(参考文献) Histoire d’Haïti Tome 1 1492-1915, Dr. Jean-Chrysostome Dorsainvil
写真のデサリーヌの肖像画は首都ポルトープランス市内の壁画とされるが、作者未詳で場所も明らかではない。
追記3: 奴隷解放とハイチ独立に貢献したドイツ人とポーランド人達
独立後にデサリーヌによって制定されたハイチの1805年憲法は、「いかなる白人もハイチの領土に土地の主人又は所有者として足を踏み入れることも、将来土地を所有することもできない」とする(第12条)一方で、「ハイチ政府によって帰化を許されたドイツ人とポーランド人は例外とする」と規定しています(第13条)。これはなぜでしょうか?
実は、フランス植民地時代に入植していたドイツ人の中には、ハイチの独立のために献身的に働いた人々がいます。また、フランス遠征軍の傭兵としてやってきたドイツ人とポーランド人の中には、フランスが黒人奴隷制度の復活を目指すことをあからさまにした時点で仏軍と離別して解放軍に加わり、ハイチの独立を支援した人々がいました。
この憲法の規定は、白人であってもハイチの独立を支援してくれたドイツ人とポーランド人に対して、デサリーヌが感謝のしるしとして国籍を付与し、市民権と政治的権利を与えたものだったのです。
(参考文献)Histoire de la colonie Allemande d’Haïti, Joseph BERNARD Jr.
Haïti : Histoire et Constitutions, Daniel SUPPLICE