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幸田町東京2020オリンピックホストタウン事業 第6回 フランス植民地時代の繁栄 - 世界一の植民地「アンティル諸島のパリ」

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記事ID:0009658 更新日:2021年4月30日更新

第6回 フランス植民地時代の繁栄 - 世界一の植民地「アンティル諸島のパリ」

 

現在ハイチがある土地の支配者がスペイン人からフランス人に切り替わったのは、太陽王として知られるフランス王ルイ14世の時代の1697年でした。

フランスは、このサン・ドマングと呼ばれる植民地で農業生産に力を入れます。北部や山間部では、たばこ、コーヒー、インディゴ(藍)、綿、カカオの生産を開始し、平野部ではサトウキビの栽培を始めました。そして急速に生産を拡大させることに成功し、70年後の1767年には、サン・ドマングの砂糖生産量は世界の40%、コーヒーは30%超を占めるようになり、その輸出額は、当時のフランスの全輸出額の3分の1を占めることになります。この働き手として、スペイン統治時代よりもさらに多くの黒人奴隷がアフリカ大陸から連れてこられます。その数は、1750年から1789年の間には年平均3万人に上ったと言われています。

 
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カパイシアンの街 撮影筆者

当時のサン・ドマングは、世界一成功した植民地とされ、その中心都市のキャップ・フランセ(現在のカパイシアン市)は、「アンティル諸島のパリ」と呼ばれました。実際に、1780年代のキャップ・フランセの人口(18500人)は、イギリス植民地のニュー・イングランド(現在のアメリカ合衆国)のボストンと同規模でしたし、港には常に100艘を超える数の船が停泊する繁栄ぶりでした。また、パリで上演された歌劇「フィガロの結婚」がほんの数ヶ月後にはキャップ・フランセの劇場で上演されたりするほど、文化的なイベントも活発に催されていたようです。

 
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奥に見える山(矢印)には世界遺産のシタデルが望めます。撮影筆者

サン・ドマングで生産された砂糖、サトウキビからとれる糖蜜(黒糖シロップ)やラム酒の主な輸出先は、イギリス植民地のニュー・イングランドでした。そして、サン・ドマングでは食料になる農作物は耕作されなかったため、食料や生活用品等は遠いフランスからではなく、地理的に近いニュー・イングランドから輸入されていました。

 
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植民地時代に碁盤の目に区画整理されたカパイシアンの街並 撮影筆者

こうしたフランスによる植民地経営の成功と繁栄は、カリブ海最大の市場として、後に独立するアメリカ合衆国による貿易上の関心だけでなく、現在のジャマイカを植民地としていたイギリスと、イスパニョーラ島の東半分を植民地としていたスペインとによるサン・ドマング征服の野心を高めることになります。

そして、何よりも、ハイチがフランスによる植民地支配から独立した後、フランスは、ハイチ政府に対して賠償金を要求することになるのです。

 

(本稿は執筆者個人の見方であり、外務省の見解を述べたものではありません。)

 

(参考文献)

「黒いナポレオンーハイチ独立の英雄トゥサン・ルヴェルチュールの生涯」ジャンルイ・ドナディウー著・大嶋厚氏訳

 

 

水野光明在ハイチ日本大使の紹介
幸田小学校、幸田中学校卒。創価大学大学院経済学研究科中退。1991年外務省入省。外務省では、主に貿易、国際協力、条約、国連関係の仕事に携わり、海外は、ガボン共和国、フランス、コンゴ民主共和国、スイス(ジュネーヴ)、国連開発計画(ニューヨーク本部)で勤務。2018年12月から現職。


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