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幸田町東京2020オリンピックホストタウン事業 第5回 コロンブスの航海 - サンタ・マリア号の錨(いかり)

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記事ID:0009654 更新日:2021年4月20日更新

第5回 コロンブスの航海 - サンタ・マリア号の錨(いかり)

2020年5月25日、黒人男性ジョージ・フロイドさんがアメリカ合衆国ミネアポリスで逮捕される途中に白人警官達による暴力で死亡する痛ましい事件がありました。この人種差別の事件を契機に、先住民の虐殺や黒人奴隷貿易に関与した歴史上の人物にも非難の矛先が向けられて、クリストファー・コロンブス像が破壊される事件が世界各地で相次ぎました。コロンブスは、現在のハイチにも立ち寄っており、残念ながら、先住民の虐殺に関与しています。

 

コロンブス一行87人は、1492年8月3日に、サンタ・マリア号、ニーニャ号とピンタ号の3艘の船でスペインを出港し、同年10月12日に現在のバハマ、同26日に現在のキューバに上陸し、12月6日には現在のハイチのモール・サン・ニコラ(北西部の最西端)に上陸しました。コロンブスは、この島を「スペインのように美しい」という理由でイスパニョーラ島と名付けました。一行は停泊する所々で、先住民タイノ族から歓迎を受けましたが、クリスマスの日、コロンブスが乗っていたサンタ・マリア号は現在のカパイシアン市(北部)付近で座礁してしまいます。コロンブスは、先住民であるマリアン王国のガカナガリック酋長の助けを借りて、サンタ・マリア号を解体し、使える木材と載せていた大砲を使って小さな砦を築き、クリスマスの日にちなんでナヴィダード(誕生という意味)と名付けました。この砦が新世界におけるヨーロッパ人による最初の建造物ということになります。コロンブスは、スペイン王室に報告するために、39人のスペイン人をこの砦に残し、ガカナガリック酋長から受け取った金(きん)とその他のお土産を持って、ニーニャ号に乗っていったんスペインに戻ります。

 
航海ルート
コロンブスの西回りインド航海のルート 出典ウィキペディア

コロンブスは、翌1493年9月、この島を植民地にするために17艘の船で1500人を連れて戻りました。そして、金の採掘のために先住民を酷使し、抵抗する者を容赦なく虐殺していきます。最初の上陸時には、数十万人から百万人ほどいたとされる同島のタイノ族は、50年後には数百人に減少し、やがて絶滅します。スペイン人は、労働力を確保するために、1505年以降、アフリカ大陸からこの島に黒人奴隷を連行しました(黒人奴隷貿易)。現在、ハイチ人口の95%を黒人が占めていますが、それにはこうした歴史的背景があるのです。

 

コロンブスの最初の航海で座礁したサンタ・マリア号の錨(いかり)は、その後、1797年にカパイシアン近郊の農園で発見されました。現在、この錨は、ハイチの首都であるポルトープランスのパンテオン国立博物館に、こうした歴史の証として展示されています。

(本稿は執筆者個人の見方であり、外務省の見解を述べたものではありません。)

 

(参考文献) Histoire d’Haïti Tome 1 1492-1915, Dr. Jean-Chrysostome Dorsainvil

コロンブスの西回りインド航海のルートの出典は、フリー百科事典「ウィキベディア」大航海時代から

https://ja.wikipedia.org/wiki/大航海時代<外部リンク>

 
サンタマリア号の錨
パンテオン国立博物館に展示されているサンタ・マリア号の錨(いかり) 撮影大使館

水野光明在ハイチ日本大使の紹介
幸田小学校、幸田中学校卒。創価大学大学院経済学研究科中退。1991年外務省入省。外務省では、主に貿易、国際協力、条約、国連関係の仕事に携わり、海外は、ガボン共和国、フランス、コンゴ民主共和国、スイス(ジュネーヴ)、国連開発計画(ニューヨーク本部)で勤務。2018年12月から現職。


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