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幸田町東京2020オリンピックホストタウン事業 第14回 ハイチはなぜ世界最強のナポレオン軍に勝利できたのか - ナポレオンの北米植民地帝国建設構想とジェファーソン第三代米大統領の対応

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記事ID:0010463 更新日:2021年7月20日更新

第14回 ハイチはなぜ世界最強のナポレオン軍に勝利できたのか - ナポレオンの北米植民地帝国建設構想とジェファーソン第三代米大統領の対応

ハイチはなぜ当時世界最強のナポレオン遠征軍3万5千人に勝利することができたのでしょうか。独立戦争の英雄たちの活躍と仏軍内での黄熱病の蔓延がその理由だったことは既に第9回で触れました。でも、本当にそれだけだったのか、もう少し視野を広げて当時の国際環境に目を向けてみることにしましょう。

ナポレオンが遠征軍を派遣しようとしていた1801年当時、サン・ドマング貿易は米国商人が独占していました。これは、アメリカが地理的に近いことに加えて、1793年に英仏が戦争状態(仏革命戦争)になり、大西洋制海権を持つイギリスが海上封鎖でフランスとサン・ドマング間を航行不能にしたことが決定打となりました。米国商人は食料、日用品、武器・火薬等をサン・ドマングに輸出し、砂糖、糖蜜、綿、藍、コーヒーを輸入して大きな利益を得るようになっていたのです。

ナポレオンは、サン・ドマングへの影響力を取り戻すため、当時多くのフランス人が住んでいた、北米大陸ミシシッピ川以西のルイジアナ地方の中心都市ニューオーリンズから、サン・ドマングに物資補給を行うという北米植民地帝国の建設を構想していました。そして彼は、サン・ドマングの再征服に成功した暁には、1800年にスペインから取り戻したばかりのルイジアナ地方にそのまま遠征して、フランスによる実効支配を実現しようとしていました。

しかし、これは、米国から見れば、ミシシッピ川のアメリカ人の自由航行を妨げ、米国内陸部への物資輸送ルートを脅かすものでした。ジョージ・ワシントン初代米大統領時代の国務長官、アダムス第二代米大統領時代の副大統領として一貫して対サン・ドマング政策を見てきたジェファーソン第三代米大統領は、フランス遠征軍が北米大陸に上陸することなく、サン・ドマングから直接フランス本国に戻るよう仕向ける政策をとります。米国は、サン・ドマングを経済的に孤立させようとするフランスの度重なる要請に対して、サン・ドマングとの関係は純粋に貿易だけで、フランスが島を取り戻す邪魔は一切しないと回答します。

 
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ジェファーソン米第三代大統領:レンブラント・ピール作

実際、ジェファーソンは、仏軍によるサン・ドマング侵攻にもトゥサン・ルヴェルチュールの拘束にも反対しませんでした。トゥサンは、独立は、フランスに代わる大国との安定した貿易なしには成り立たないことを知っていたようです。トゥサンが1801年憲法でサン・ドマングの独立を宣言せず、フランスの植民地であり続ける決断をしたのはそのためでした。憲法発布後も、トゥサンは、独立に向けて米国の支援を期待しますが、ジェファーソンは、フランスとの全面的な対立を避けるためにサン・ドマングの独立にコミットすることはありませんでした。

しかしその一方で、ジェファーソンは、米国商人がサン・ドマング解放軍に武器・火薬を売るのを放任し続けました。米国商人からの武器の密輸は、サン・ドマングの解放軍によるフランス遠征軍への抵抗の継続を可能にし、解放軍の勝利に大きく貢献したのです。

サン・ドマングでの思わぬ苦戦に加え、対英戦争の再開(1803年5月16日)が避けられないことが明らかになったことで、ナポレオンの北米植民地帝国建設構想は頓挫します。砂糖による巨額の富を生むサン・ドマングを失うのであれば、いまだ実効支配ができていなかった広大なルイジアナを莫大なコストをかけて領有する意味も余裕もフランスにはありませんでした。ナポレオンは、英国との新たな戦争費用を捻出するため、また、あわよくばこれから始まる英国との戦争で米国の支持を得るために、1803年4月30日、ルイジアナを米国に破格の1500万米ドルで売却します。これは、ジェファーソンの対仏・対サン・ドマング外交政策が成功した瞬間でした。

 

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ナポレオンが米国に売却したルイジアナ【オレンジ色】:出典ウィキペディア

1803年11月18日のヴェルティエールの戦いでのフランス軍の敗戦は、フランスにとって不名誉な、スキャンダラスな出来事として、ナポレオンとフランスの歴史から消し去られます。このナポレオン軍の屈辱的な敗戦は、彼が皇帝になる1804年5月18日のわずか半年前の出来事だったのです。

 

(本稿は執筆者個人の見方であり、外務省の見解を述べたものではありません。)

 

(参考文献)

  • Hayti et l’influence des Etats-Unis d’Amérique : De l’Indépendance à la Reconnaissance (1791-1864), Joseph Bernard Jr.
  • ジェファーソンの肖像画の出典は、フリー百科事典「ウィキペディア」から
  • ルイジアナの地図の出典はフリー百科事典「ウィキペディア」フランス語版「ルイジアナ売却」から 

https://fr.wikipedia.org/wiki/Vente_de_la_Louisiane<外部リンク>

 

追記6 ニューオーリンズ・ジャズに影響を与えたサン・ドマングの黒人奴隷達

アメリカ合衆国南部のジャズ発祥の街として有名なニューオーリンズには、コンゴ広場と呼ばれる広場があります。この広場は、フランスの植民地時代の1740年後半には市場として使われ、1803年には、黒人奴隷達が毎週日曜日の午後に集ってドラムを叩き、歌い、踊る場所になり、1819年にはその数が500人から600人に及んだとされます。そこで最も有名だったのは、アフリカのコンゴ音楽、そして、サン・ドマングからもたらされたバンブーラ(Bamboula)音楽とカリンダ(Calinda)ダンスでした。バンブーラ音楽は、ハイチ革命前後に島を脱出したフランス人に連れられた黒人奴隷達によってニューオーリンズにもたらされました。この文化的な表現が後にニューオーリンズの謝肉祭マルディ・グラへと発展し、さらに、ニューオーリンズ・ジャズやリズム&ブルースにつながっていきます。謝肉祭としてはリオのカーニバルと並んで有名なマルディ・グラと、ジャズのルーツに、現在のハイチが関わっていたのです。

(参考文献)

写真のコンゴ広場の看板の説明書き

フリー百科事典「ウィキペディア」フランス語版Bamboula, Calindaから

 

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ニューオーリンズのコンゴ広場の看板:筆者撮影

 

水野光明在ハイチ日本大使の紹介
幸田小学校、幸田中学校卒。創価大学大学院経済学研究科中退。1991年外務省入省。外務省では、主に貿易、国際協力、条約、国連関係の仕事に携わり、海外は、ガボン共和国、フランス、コンゴ民主共和国、スイス(ジュネーヴ)、国連開発計画(ニューヨーク本部)で勤務。2018年12月から現職。


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