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幸田町東京2020オリンピックホストタウン事業 第13回 ハイチの人権・社会派映画監督 アーノルド・アントナン監督

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記事ID:0010431 更新日:2021年7月9日更新

第13回 ハイチの人権・社会派映画監督 アーノルド・アントナン監督

今回は、アーノルド・アントナン(Arnold ANTONIN)というハイチ人映画監督について、紹介したいと思います。

昨2020年3月、彼は、「海はかく語りき(Ainsi parla la mer)」という題のドキュメンタリー映画を発表して、ハイチで話題になりました。これは、カリブの太陽と青い海はハイチに住む人々に多くの恵みと文化をもたらしてきたけれども、投棄ゴミによる汚染とマングローブの伐採によって今、海が悲鳴を上げているという内容で、ハイチの美しい自然とそれが危機に直面している映像は観る者の心に強く訴えかけてきます。

 
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アントナン監督:彼のオフィスにて筆者撮影

アントナン監督の人生は壮絶です。彼は、15歳の時、通学途中で隣の家の門番がその家に入った花瓶泥棒を殺害するのを目の当たりにしました。人を殺したにもかかわらず、その門番が罪に問われることはありませんでした。彼は、その歳で「この社会を変える必要がある」と強く感じます。当時、ハイチでは、フランソワ・デュヴァリエ大統領という独裁者が恐怖政治を行っていました。アントナン少年は、貧しい農民が文字を読めるよう支援するために団体を設立したことで結社の自由を規制する政府に目をつけられてハイチにいられなくなり、18歳でイタリアのローマに逃れ、25年間の亡命生活が始まります。彼は、「どうやったら世界の人々の関心をハイチに向けられるか?」と熟考して映像を撮り始めます。1973年から独裁に反対するドキュメンタリー映画を撮影し、75年に「ハイチ 自由への道Haiti le chemin de la liberté」という映画が海外に住むハイチ人の間で評判になって、反独裁の機運を高めることに貢献します。そして1986年に独裁が終了するとすぐに帰国して、民主主義のために政治運動に身を投じますが、挫折を味わい、1991年に政界を退きます。

 

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監督の敬愛するトゥサン・ルヴェルチュールの肖像(メタルアート)の前で筆者撮影

2001年にオリジナル映画の制作を再開して、まず、芸術家グループ・サンソレイユ派の生みの親である芸術家ティガ(Tigaは通称で本名はJean Claude Garoute)のドキュメンタリー映画が成功を収めます。そして、デュフォー(Préfete DUFFAUT)、アンドレ・ピエール(André PIERRE)、セドール(Cédor)、ジェラール・フォルチュネ(Gérard FORTUNE)等の画家、2009年にノーベル文学賞候補になった作家のフランケチエンヌ(Frankétienne)のドキュメンタリーのほか、2010年のハイチ大震災では震災当日からカメラを回して映画を制作しました。

 

最近、アントナン監督とお会いした際に、彼の映画制作の狙いを尋ねることができました。彼は、ハイチの人々がハイチ人であることを誇りに思えるように「ハイチの価値」に光を当てること、それと、ハイチ人が忘れてしまいがちな「国の記憶」を残すことだと答えてくれました。それらは、大統領や大臣にはならなかったが社会を変革しようと闘った政治家、ハイチの誇る傑出した女性達と芸術家、ハイチが苦しんだ独裁政治と大震災、不処罰問題や環境汚染などの国が抱える喫緊の課題のことを指します。

 

現在、アントナン監督は、祖国を独立に導いた建国の父であるジャンジャック・デサリーヌに関するドキュメンタリー映画を制作中です。彼の創作意欲は79歳になった今も衰えることがありません。

 

出典:Arnold Antonin, le cinéma de la liberté, Virginie Hemar著

 

水野光明在ハイチ日本大使の紹介
幸田小学校、幸田中学校卒。創価大学大学院経済学研究科中退。1991年外務省入省。外務省では、主に貿易、国際協力、条約、国連関係の仕事に携わり、海外は、ガボン共和国、フランス、コンゴ民主共和国、スイス(ジュネーヴ)、国連開発計画(ニューヨーク本部)で勤務。2018年12月から現職。


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