彦左衛門は幸田の米を食べていた?

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 テレビや映画でおなじみ、頑固一徹「天下のご意見番」大久保彦左衛門
彼が幸田町にゆかりがあるってご存じでしたか?。彦左衛門は、三河国額田郡(現在の岡崎市も含む)の地内に二千石の領地を持つ直参旗本でした。そのうちの約千石が幸田町内の坂崎にあったのです。

 

 


 彦左衛門がこの領地を訪れたことがあるかは、確かなことは分かっていません。でも、彦左衛門から坂崎陣屋の代官にあてた手紙(小田原城蔵)に領地のことが詳しく書いてあったり、また、天竜市にある『田代文書』(鹿島田代家蔵)には、自筆で「三河より」と書いてあることから、数回は訪れていたと思われます。
現在、八百富社が建つ場所は、元は大久保陣屋があったところです。今ではその面影は、境内の南境にある石垣を残すのみとなっています。

 

庶民のヒーロー彦左衛門
大久保彦左衛門

 皆さんは、「大久保彦左衛門」と聞いて、何を想像しますか。「たらいに乗っている」「丸いめがねをかけている」「一心太助と一緒に江戸のまちを世直しする」一般的なのは、こんなところでしょうか。有名な「たらいに乗ってのご登城」の話は、旗本以下の架篭を使っての登城が禁止されたことに対し、「年寄りや病人など足の不自由な者もいるのに、それをとどめるとは言語道断」。彼はそう言って、大たらいで登城。それを見とがめた役人に一言「たらいは駕篭にあらず」-何とも痛快な話です。また、こんな話もあります。

徳川家康が臨終のとき、彦左衛門に遺言を残した。
「彦左衛門のわがまま無礼を許す。今後将軍に心得違いがあるときは、彦左衛門に意見させよ」-これが「天下のご意見番」と呼ばれたゆえんです。皆さんのイメージの彦左衛門は、「徳川家への忠義は人一倍、それでいて弱い者のためには将軍すらしかりとばす」といった感じ。それは、「庶民のヒーロー」、つまり日本人の大好きなイメージそのままの人物像ではないでしょうか。彦左衛門の逸話は、『大久保武蔵鐙(おおくぼむさしあぶみ)』や『名将言行録(めいしょうげんこうろく)』など数多くの書で伝えられています。それらの記録により、彦左衛門の人柄や経歴が時代の移り変わリにつれて、伝説的な人物として誇張され、講談などの世界で取り上げられるようになりました。これにより、世間から「天下のご意見番」として、喝采を浴びるようになったのです。

大久保家

はたしてヒーローの正体は

 皆さんのイメージを崩して、申し訳ないのですが、イメージはあくまでもイメージ。実際の彦左衛門は、たらいに乗っていませんし、家康の遺言の記録もありません。あくまでも、講談の世界でのお話なのです。それでは、実際の彦左衛門はどのような人物だったのでしょうか。彼の名は、正しくは、大久保彦左衛門忠教(ただたか)といいます。父忠員の八男として、永禄三年(1560年)に現在の岡崎市上和田で生まれています。十六歳で元服し、家康の元で、大阪の陣にいたるまで数々の武功を挙げてきました。兄弟から二人の大名も出て、大久保家も全盛でした。しかし、彦左衛門の六歳上の甥である忠隣(ただちか)が本多正信との幕政の主導権争いに敗れ、所領没収となり、大久保家もこれで衰退かと思われました。そのような中、名門大久保家の命運を担ったのが彦左衛門でした。彼は家康に駿府城へ召し出され、初めて直参旗本に命じられました。このとき幕府から受けたのが三河国額田郡坂崎の千石でした。後に千石の加増があり、合わせて知行(領地)二千石の旗本となりました。ところで、二千石ですと、どれくらいの地位なのでしょう。一万石以上が大名です。旗本でも多い人は八千石近く受けていたそうです。彦左衛門は、旗本の中でも「中の下」位いの位置だったようです 。

 

彦左衛門は窓際族?
 彦左衛門の性格を最もよく理解できる資料として、『三河物語』があります。これは、彦左衛門が六十歳を過ぎてから書き始めたもので三巻から成り立っています。徳川家及び大久保家の経歴を記して子孫に残した一種の家訓書です。徳川家の欠点は表に出さないように書いてありますので、全くの史実として受け取ることはできませんが、 数多くの事件が著書の中に出てくることから、史書としての価値も評価されています。上巻と中巻では、彦左衛門が父や兄たちから聞いた戦の様子などがくわしく書かれています。
 彦左衛門の性格がよく現れているのは、戦国末期から徳川幕府初期にかけて自分が体験し、感じたことを書いた下巻です。その中で彦左衛門は、彼の思想として、「主君たる者は、恩愛、慈悲、憐憫(情け)」などの気持ちが大切で、家臣たる者は、忠義、礼節、信義などを重んじなければならない」と言っています。また、著書の中には、当時の幕政を皮肉った「出世する者、しない者」といった件もあります。徳川政権のもと、平和な世の中となり、彦左衛門など今まで徳川家に忠義を尽くしてきた武功派の武士たちが阻害され、そろばん勘定の得意な文治派の武士たちが出世していきました。そんな世の中なのですから、数多くの武勲を挙げながら、時流に乗れず窓際族に追いやられた彦左衛門だって、愚痴の一つも言いたくなります。また、「子供たちよ、よく聞け。今はご主君様(三代家光)をありがたいと思うことはこれっぽっちもない」と、一つ間違えば“切腹もの”の発言も飛び出していますが、その後で、子供たちに、「ご主君様に奉公しなかったら、たとえ私が死んでいたとしても、おまえたちの前に現れて喉笛に食いついて食い殺すぞ」と、どこまでも徳川家に奉公すべきと述べています。そこには、彼の徳川家への忠誠と不満が入り交じった複雑な心境がうかがえます。
 この著書では、物事の本質をズバリとつく鋭い指摘が行われています。「昔は良かった」と連発するただの煙たい老人ではなく、良いことは良い、悪いことは悪いと、きつぱりと述べています。彦左衛門は、不満は不満として臆するすることなく公言しながらも、自分の信念と誇りを失うことなく、堂々と背筋を伸ばして生きてきたことがうかがえます。

 

三河物語は門外不出のベストセラー 縁のお寺
 『三河物語』は、その中で彦左衛門も述べていますが、「門外不出」であり、自分の子孫にあてて書かれたものでした。でも、実際は、江戸期の「出版されたことがない」隠れたベストセラーでした。「門外不出」の名目上、版木にはしませんでしたが、次々に写本され、武士から町民までいたるところで読まれていました。彦左衛門の「年寄りの愚痴」ともとれる屈折ぶりは、不遇な旗本や浪人たちの共感を受け、また、江戸庶民にとっても決して難解ではなく、むしろ心地よいユーモアだったのでしょう。また、「門外不出」といいながら、子孫以外に読まれることを止めようとしなかった彦左衛門は、むしろ世の中にどんどん広まっていくことを密かに期待していたのかもしれません。彦左衛門の文章力について、 勝海舟は『海舟座談』の中で、「彦左衛門は『三河物語』を書くために、六十歳から手習いを始めた」と述べています。でも、実際は、もっと若いころから文字を書き、文芸にも心を寄せたと思われます。武功派としてのイメージが強いのですが、文武ともに長けていたようです。

虚像と実像の狭間で

 繰り返しますが、講談やテレビで語られていることは、ほとんど事実とはいえません。でも、彼がその生涯を通して一貫した“生きざま”、それは、どれだけ徳川家のために大久保家が忠勤を励んできたかを記した『三河物語』に表されています。その三河武士の真骨頂が、自ずと世間の共感を呼び、誇張された講談上の大久保彦左衛門になったのだと思われます。皆さんのよく知る大久保彦左衛門は、「虚像」です。しかし、それは江戸庶民の政治に対する思いや人々に対するやさしさが作り上げた「虚像」なのです。そして、「虚像」にも「実像」にも共通するのは、「中途半端な妥協はせず、批判すべきことは徹底的に批判し、貫くべき信義に関してはどこまでも貫き通す。つまり、自分の生き方に忠実でありたい」という彦左衛門の心です。そんな彦左衛門だからこそ、没後約三百六十年たった現代でも人々から愛され続けているのでしょう。寛永十六年(一六三九)、八十 歳でこの世を去った彦左衛門の墓は、岡崎市の長福寺と東京芝白金(しろがね)の立行寺(りゅうぎょうじ)にあります。

 

取材協力

  • 愛知県及び町文化財保護委員の皆さん
  • 大久保忠恭氏
  • 長福寺
  • 三河武士の館家康館

参考資料

  • 大久保彦左衛門忠教の実像研究(大津準一編)
  • 原本三河物語(久曽神昇序・中田祝夫編・勉誠社)
  • 大久保彦左衛門 三河物語(百瀬明治編訳・徳間書店)
  • 古記録の研究下(斎木一馬著・吉川弘文館)
  • 坂崎郷土史
  • 講談全集 大久保彦左衛門奥付(大日本雄弁会講談社)
  • 日本史探訪17講談・歌舞伎のヒーローたち(角川書店編)
  • 老虫は消えず 小説大久保彦左衛門(童門冬二著・集英社)
  • マンガ日本の古典
  • 三河物語(安彦良和著・中央公論社)
  • 日本テレビ「知ってるつもり?大久保彦左衛門」