町の名の由来

「幸田(こうた)」

 宝暦7年(1757年)下六栗村から代官所へ届けた文書の中に「井堰6か所江田川通り」とあります。広田川は当時江田川と書き、コウダと発音しましたが後年同音である広田と書かれ、発音はコウダと昔ながらの発音が残りました。
 この広田川が流れる村ということで、明治39年に坂崎村、相見村、深溝村が合併した時広田村としました。しかし、明治41年の東海道本線の駅開業に際して、駅名を村名の広田(コウダ)とすることを鉄道省に申請したところ、すでに磐越西線に広田(ヒロタ)駅があり、同字の駅があるということで、同音をとって幸田駅と名づけられました。しかし、駅名と村名が違っていたのでは、社会的に誤解を招きやすいことと、幸田というイメージが当時の村民に好感を持って受け入れられたこともあり、明治41年に幸田(コウダ)村に改められました。なお、コウダからコウタへは、昭和29年8月1日の幸田町と豊坂村が合併したときに改められました。

地区の名の由来

「長嶺(ながみね)」

 長嶺は、「ナガミネ」と呼ばれ、古くから嶺の字を使っています。全国の各地に長嶺という地名がありますが、ほとんど「ナガネ」と呼んでいます。
 嶺「ミネ」には山のいただきの意味があり、長嶺の地名はこの付近の地形からきているといわれています。隣接の坂崎に、東長根、西長根、また大草にも「ナガネ」のつく地名が残っていますが、昔は長嶺とかいていたのではないでしょうか。
 また、岡崎市史には、「上代この地方に白鳥村主・長嶺宿弥阿知主が居たがともに帰化した一族である」と記していることから、この地名は、奈良時代以前にすでに存在していたことになります。

「久保田(くぼた)」

 大字久保田は、江戸時代の初めには窪田と書いた文書が残っています。隣の長嶺と同じく、地形をもとに付けられたと考えられます。

「坂崎(さかざき)」

 昔、この地方は京ヶ峯の山麓が丘陵地となって四方にのび、低地は菱池沼の入江になっていました。この丘陵地は、いくつもの出崎となっており、このことから坂崎の地名は起こったものと思われます。そして現在も、崎のつく地名がたくさん残っており、柴崎、山崎、西ヶ崎、神戸が崎、出崎、入崎、狐崎、野崎が坂崎の八崎と呼ばれています。
 慶長のころから久保田、長嶺、馬場、西ヶ崎、市場、青塚、次見、国定、小道、城の10村が坂崎十か村と呼ばれていましたが、明治初年には、久保田村、長嶺村、坂崎村に別れていたと記録には残っています。

「大草(おおくさ)」

 大草という地名は、県内でも数ヶ所あります。本町の大草が始めて文書に現れるのは、応永元年(1394年)足利尊氏が立てた京都天龍寺の造営記録綱引の条で、参河の国大草弥九郎公重が、全国から選ばれた若侍17人の中で、最年少であることが記録されています。
 大草の名が最初何によってつけられたか伝承はありませんが、青(アオ)と大(オオ)は発音上混同しやすい音で、青を(オオ)と発音している地名は各地にあるので、青草が大草に転化したのではないでしょうか。
 芦(あし)、すすき、萱(かや)など青草の茂った草原は、開墾適地として先人には関心の深いものであったに違いありません。

「高力(こうりき)」

 俗に高力熊谷氏の祖、熊谷次郎直実が強力であったことから高力と名づけられたといわれていますが、これはあまり信じられない説でしょう。
 熊谷氏は、南北朝のころ信濃国大河原の戦いに南朝の宗良親王に味方して戦いましたが、敗戦により一族は各地に潜むこととなりました。そのうち高力に住したものが高力氏を、また岩堀に定住したものが岩堀氏を名乗り、徳川家康の時代には岩堀氏は振るいませんでしたが、高力氏は、高力清長が2万石の岩槻城主になるなど、優勢な一族となりました。
 高力という地名は、鎌倉時代この地方に高氏が地方の支配者として駐在していたので、高氏に関する地名か、または古代この地方には大陸文化の指導者として帰化した中国や朝鮮の人たちも定住していたと思われるもので、高句麗に関係ある地名ではないかと思われます。

「鷲田(わしだ)」

 岡崎市佐々木上宮寺文書中に、蓮如上人真筆と言われる蓮師直弟子の連名帳があります。この中に「わしだ一個所、船津弾正」とあります。一個所とは今の正専寺で、船津弾正は猿投神社の社人の出で、本姓鈴木という船付場の役人であったと思われ、蓮師の弟子となり名を慈祐と号し正専寺を立てた人であるといわれています。文書にわしだの名が見られるのは今のところこれが最も古いものです。
 鷲田の地名がいつごろ、何によって名付けられたか判明していませんが、鷲田と呼ぶワシの音はアシ(芦)の転化ではないでしょうか。碧南市に鷲塚という地名がありますが、これは昔「芦州処(あしずか)」と書かれています。また、各地に鷲津という地名がありますが、水辺の地がおおくあります。
 上代に菱池沼の出崎に定住した人たちが浅瀬の芦原を開拓した時は、あし田と呼ばれ、後に鷲田に変わったものと思われます。

「岩堀(いわほり)」

 康生2年(1456年)の段銭帳に、「八百三十年月二十日送付、岩堀左将監岩堀屋敷分段銭」とあります。段銭とは、、田一反を単位として割り当てられた租税で、文書には岩堀の名が見られるのは、今のところこれが最も古いものと思われます。
 古来湖沼の周辺や湿地帯を開拓した場合、堀田と名付けられています。また、今月・今切れなどの地名が各地にありますが、そのどれもが起源を六、七百年以上前に溯ることができます。地名に今の字が使われたのは鎌倉から室町時代で、当時は流行文字となっており、新と同じ意味を持っています。つまり、菱池沼周辺が新しく開拓され今堀りと呼ばれていたものが年とともに転化し岩堀となったと思われます。

「横落(よこおち)」

 河川の流れが急に落下する所を、昔からオチ・タゲ・タガイなどと呼んでいます。尾浜川の上流、荻方面からの水が横落地内で急に落下している場所が一、二個所あります。集落はその川の落下場所周辺にできたので、横とは集落との位置関係を示していると思われます。

「荻(おぎ)」

 この地名は、荻という植物からきていると思われます。荻はススキに似たイネ科の多年草で芦よりも乾燥した土地に繁茂します。
 遠望峰山の麓に村落ができた当時の景観が、地名として残っているものと思われます。 

「芦谷(あしのや)」

 康生二年(1456年)造内裏段銭並国役帳に、五百五十五文三河国芦谷郷段銭と書かれています。岩堀・大草に続いて記されているので、幸田町の芦谷のことと思われます。
 古老は、「年代は不明であるが、この土地は額田四郎勝正が首長となって土地を開き、その後に寛生のころ碧海郡上野から内藤勝重が移住し、あれた土地を開き耕地を増やし、十六世紀の中頃には、三十二戸、百四十六人の人口でした。その後十七世紀の中頃、六栗との境に堤防を築いて川の中央を境界とし、この川を境川と呼んだ」と伝えられています。
 芦は稲科の多年生草本で、この地方では「よし」と呼び、水辺に自生していますが、この芦谷という地名は、水辺の芦原を開いて村落ができた当時の景観から名づけられたのもと思われます。

「深溝(ふこうず)」

 深溝の地名は、江戸時代深溝津と書かれている地図もあります。この地名についてはいろいろな説があります。
 岡崎市史には、昔矢作川の東岸六名から下流の地及び、東は丸山大平方面までの一帯を、深溝の庄と呼んだと記しています。つまり、岡崎市六名以南の矢作川東岸及び、菱池周辺の村はみなこの庄に属しています。
 さてフコヲヅの称が何に起因するかですが、和名類取抄に次の八郷を載せています。これは新城・鴨田・位賀・額田・麻津(ヲヅ)・六名・大野・山綱の八郡で、麻津は前記の深溝庄の地と思われます。「ヲヅ」は小津で、矢作川を上下する舟の泊場があったこの地一帯を呼び、「フカ」は接頭語と思われます。
 このような広い地域を呼んだ地名が、なぜ幸田町内にのみ残ったかは伝承が残っていません。

「逆川(さかさがわ)」

 文字道理では納得しがたい地名です。しかし、吉良町の矢崎川を上がって逆川に入ると、川の流れは逆に深溝の方へ流れていきます。逆川の名は、吉良の人たちによって名づけられたものと思われます。
 その一つの証明として、逆川には羽梨(はり)神社があります。昔隠田百姓といわれ、山間の谷川ぞいを開拓して定住した吉良方面の人たちが、親村の総社幡頭(はと)神社のご分身を受けて祭ったと思われます。
 また、この地が吉良に属していた資料として、深溝三光院の鰐口(わにぐち)があります。昔三光院は逆川にあり、深溝に移転の折り、薬師堂に掛けられていた鰐口も移されました。これには「奉施人鰐口吉田郷大匠塚薬師堂延徳四年四月二十八日施主敬白」と刻まれています。

「桐山(きりやま)」

 昔切山と書かれた地で、キリは開墾の意味があります。開墾の古い用語にハリ(墾)、シバ(新発)、カイト(開土)、カイショ(開所)、シンキリ(新切)などがあります。
 切山は山すそを切り開いた村という意味で、その土地を最初に開拓した人たちをシバキリと呼んでいる例は各所にあります。

 
資料:幸田町史